梦里千回是敦煌 ——日本画家・平山郁夫と敦煌の半世紀にわたる縁
—— 日本画家・平山郁夫と敦煌との半世紀にわたる縁
彼は日本の画家でありながら、生涯の心血と深い情けを中国西北の敦煌という小さな町に注ぎ込んだ。百数十回にわたって中国を訪れ、玄奘三蔵が西行求法のために辿った道を隅々まで踏破したが、心の拠り所として魂が引き寄せられるのは、やはり敦煌である。この縁は彼の逝去とともに途絶えることなく、敦煌壁画に千年流れ続ける色彩のように、中日両国の画家たちの筆を通じて代々受け継がれている。
平山郁夫(ひらやま いくお、1930—2009)は東京藝術大学第 6 代学長、日中友好協会名誉会長、ユネスコ親善大使を歴任した。中日民間では「現代の玄奘三蔵」と親しまれ、敦煌の地ではその名が世代を超えて記憶され、感謝され続けている。この国境を越えた師弟の縁が、中国の敦煌画家・高山とこの日本の大画家を強く結びつけた。
一、廃墟から生まれた平和を願う青年
1930 年、平山郁夫は広島県瀬戸内海の生口島に生まれた。1945 年 8 月 6 日、わずか 15 歳の彼は広島原爆投下の惨状を目の当たりにした。この災厄の生存者は長年にわたり放射線障害に苦しめられ、一時は白血病と診断されるほどだった。
病魔と闘う日々、美術が絶望の淵から彼を救い上げた。東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業後、『仏教伝来』で頭角を現し、続いて『入涅槃幻想』『大唐西域壁画』などの大作を発表し、日本を代表する画家の一人となった。しかし、彼の人生の方向性を根本から変えたのは、東に伝わった仏教と、仏法東伝の道であるシルクロードだった。
玄奘の足跡を辿ってシルクロードを旅した時、広大な砂漠の中で彼が見たのは単なる歴史遺跡だけではなく、人類の諸文明が互いに照らし合い、融合し合う温かな姿だった。平和と文明へのこの憧憬が、その後数十年にわたる創作と行動の源となった。
二、一度の邂逅が定めた半世紀の約束
1979 年、平山郁夫は初めて敦煌を訪れた。本物の莫高窟の前に立ち、千年を経ても輝きを失わない壁画を仰ぎ見た時、言葉にできない衝撃を覚えた。敦煌芸術と玄奘の精神に打ち震えた彼は、敦煌を精神の故郷と定め、その後何度も足を運び、最も深い敬意と実際的な保護の尽力をこの地に捧げ続けた。
敦煌文化は長きにわたる多文明の交流融合の結晶であり、中華文明の開放的で包容的な姿を示す証である。平山郁夫は他の誰よりも早く、深くこの真意を理解していた。敦煌を守ることは単なる石窟の保護に留まらず、人類共通の記憶となる歴史の源流を守ることだと、彼は確信していた。
平山郁夫シルクロード美術館所蔵 画中の菩薩は眉を垂れて安らかで静か、衣紋は風になびき色彩は華やかである。この模写作品から読み取れるのは、画家としての確かな画力だけではなく、異国の芸術家が敦煌の美に抱く心からの礼賛である。彼は最も敬虔な筆致で、敦煌の美を自らの絵巻に丁寧に写し取った。
三、千金の約束、砂漠奥の文明を守るために
平山郁夫の敦煌への想いは、ただ言葉で感動を語るだけのものではない。多額の私財と実際の行動をもって、敦煌への約束を果たし続けた。
彼の敦煌保護にまつわる行いは、一つ一つが重みを持って語り継がれている。
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1988 年、日本政府に働きかけ、10 億円の無償援助を実現、「敦煌石窟保護研究陳列センター」を建設
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1989 年、自身の展覧会収入 2 億円を寄付し、「中国敦煌石窟保護研究基金会」の設立を後押し
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1990 年、100 万米ドルを寄付しユネスコ「シルクロード基金」を設立、敦煌学研究を支援
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在任中、東京藝術大学に敦煌芸術を必修科目とし、同大学と敦煌研究院の約 40 年にわたる共同研究・人材育成の連携を実現
また晩年まで、日本政府と中国の文物保護分野における協力を長期的に推進し、敦煌とシルクロード遺産の保護のため奔走し続けた。彼の呼びかけに応え、多くの日本の若者が敦煌を訪れ、学び、研究し、壁画模写に励むようになり、敦煌文化が両国の若い心に平和と友好の種を撒いた。
鳴沙山東麓に雄大に立つ九層楼は、莫高窟の最も目を引くランドマークである。一方、楼蘭はかつてシルクロードの行商人でにぎわった緑のオアシスだったが、今では砂風に語り継がれる廃壁だけが残る。平山郁夫はこうした地をすみずみまで巡り、筆で文明の興廃を記録すると同時に、行動で文明の残り火を絶やさないよう守り続けた。これこそ彼の言う「芸術は長く、人生は短し」に込められた切なる執念である。
四、玄奘の道を辿り、文明の光へ
平山郁夫の生涯は、常に玄奘三蔵の西行を精神的な指針としていた。アフガニスタンのバーミヤン、インドのナーランダ、そして中国の敦煌まで、この唐代の高僧の足跡を何度も歩き、何度も描き続けた。彼はこう語った。「シルクロードは東西の交易路であると同時に、異なる文化が交流を重ねる道である」。
果てしない砂漠の中で、平山郁夫は風景を記録するだけでなく、国境を越えた精神の通路を追い求めていた。彼が残したスケッチブック、デッサン、巨大壁画の下絵は、自身の芸術の苦闘の軌跡であるだけでなく、古きシルクロードに現代の息吹と温もりを与え続けている。
『大唐西域壁画・月夜のナーランダ』下絵は、平山郁夫が奈良薬師寺玄奘三蔵院のために制作した全長 50 メートルの巨大壁画の一節である。ナーランダは玄奘が求法のため学んだ高等学府であり、仏法が東に伝わる重要な中継地でもある。平山郁夫は月夜のナーランダを描くことで中国とインドをつなぐ文明の脈絡を表現した。そして敦煌は、この文明の長き道の最も輝かしい節目なのだ。
「芸術の基準は『新しいか古いか』ではなく、『良いか悪いか』にある」 —— 平山郁夫
五、国境を越えた師弟の縁
平山郁夫と敦煌の縁は、彼一人のものではない。彼は敦煌への深い想いを架け橋とし、中日両国の敦煌を守る画家たちをつなぎ続けた。その中に、中国の敦煌画家・高山がいる。
90 年代、若き敦煌壁画模写者だった高山は、敦煌を視察に訪れた平山郁夫と出会った。当時高山は敦煌研究院美術所で、日々千年の壁画と向き合っていた。平山郁夫は全身全霊で敦煌模写に打ち込む若者に目をかけ、より広い世界へ踏み出すよう励ました。1994 年から 1996 年にかけ、高山は敦煌研究院の公費派遣で東京藝術大学へ渡り、平山郁夫研究室で研鑽を積んだ。
東京での日々、高山は画技を磨き上げるだけでなく、平山郁夫と朝夕を共に過ごす中で、この大師が敦煌に抱く、国境や利害を超えた純粋な守護の心を悟った。数年後、自身の敦煌のアトリエでこの時代を回想する高山は、平山郁夫が彼に贈った六文字の言葉をいつも思い出す。「芸術は長く、人生は短し」。
「芸術は長く、人生は短し」 —— 平山郁夫、高山に贈る
わずか六文字に、平山郁夫の芸術と生命に対する最深の悟り、そして中国の弟子への熱い期待が込められている。高山はこの期待を糧に数十年にわたり守り続け、「敦煌画派」という概念を提唱し、「再創作模写」という手法論を確立。敦煌壁画を文物の複製に留めず現代芸術創作へと昇華させた。また高山美術館を設立し、平山郁夫から受け継いだ敦煌への守護と熱い想いを、敦煌を愛する多くの人々に伝え続けている。
この国境を越えた師弟の縁は、平山郁夫の敦煌との縁を飾る最も美しい追記である。一人の画家が残す最も深い遺産はキャンバスの上だけにあるのではなく、彼の精神に照らされ、さらに他の人々を照らす心の中に息づいていることを、私たちに示してくれる。
六、彼の心は永遠に敦煌に残った
2009 年 12 月 2 日、平山郁夫は東京にて病により逝去。享年 79 歳。生涯に 150 回を超えて中国を訪れ、中国の文物保護と中日友好事業に全身全霊を捧げた。2002 年、中国政府より「文化交流貢献賞」が授与された。これは中国政府が文化交流分野において贈る最高の栄誉であり、中外文化交流に卓越した功績を残した国際友人を称えるための賞である。
生前、彼は「ずっと旅路の上にいる」と語っていた。その通り、広島から敦煌、バーミヤンからナーランダまで、彼は玄奘よりも長い精神の道を歩み続けた。この道に国境はなく、あなたと私の区別もない。ただ一人の画家の敬虔な想い、平和主義者の熱い願いだけがある。
今、敦煌を訪れ、朝の光に浮かぶ九層楼の輪郭を眺め、壁画の菩薩が千年変わらぬ姿を見つめるたび、この東洋の画家の深いまなざしが思い浮かぶ。彼は私たちに教えてくれた。真の文明は交流の中で育ち、真の友好は守り合う中で永遠に続くのだと。
平山郁夫氏、ありがとうございました。敦煌はあなたを記憶し、中国はあなたを記憶し、人類の文明はあなたを記憶する。そしてあなたが自らの手で灯した道は、高山をはじめとする後継者たちによって、代々歩み続けられている。
平山郁夫生誕 95 周年に寄せ、心を敦煌に残した日本の大画家に敬意を込めて
本文に掲載する『菩薩像・敦煌石窟 57 窟南壁』『敦煌石窟九層楼』『大唐西域壁画・月夜のナーランダ』下絵『アフガニスタン・玄奘の道』『楼蘭遺跡』の五作品は、いずれも日本・平山郁夫シルクロード美術館公式サイト所蔵品より引用。文化への敬意と公益的な情報発信のみを目的とし、著作権は作者および館に帰属する。 本文の史実は中国新聞網、澎湃新聞、敦煌研究院、平山郁夫シルクロード美術館の公開資料を参考に整理。高山の師弟関係や贈呈の言葉に関する記述は百度百科および公開芸術報道を参照した。記載に不備があればご指摘を賜りたい。
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「丝绸之路既是东西贸易之路,也是不同文化相互交流之路」:シルクロードは東西の交易路であると同時に、異なる文化が交流を重ねる道である
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