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漢院中国語学校の近くーー田子坊

   

上海田子坊:異国の文化が集まるおしゃれな弄堂
中国語学校漢院より徒歩20分のところに 泰康路の田子坊は上海の通りの中で一番面白いと言う外国人が多い。
 長さ420メートルほどの泰康路の両側には、中国風や欧米風の建物がひしめきあっていて、清の時代に庶民が暮らしていた伝統的な石庫門(シークーメン=中国の集合住宅建築様式の一つ、以下「石庫門」)や新しいタイプの里弄(リーロン=路地、以下「里弄」と表記)、石庫門と工場が併設されている建物など、上海が小さな漁村から現在の混沌とした東西融合都市へと変貌し、その中で町の小さな加工工場から中国の今を支える小型加工企業が起こった歴史が刻まれている。
 現在田子坊で働くクリエイターの出身地は26の国と地域に及び、就業人口は800人余り、彼らもまた、今なお健在な「上海の弄堂物語」の主役なのだ。
 田子坊の面積は7万平方メートルあまり、上海に50以上ある創意園区(アーティストたちの工房があつまる地区)でもその存在は特異なものだ。ほかの創意園区はそれぞれ独立した古い建物や倉庫を改造したもので(例:上海新天地、M55)、住民とは特に交流をもっていない。ここ田子坊だけが、旧式の里弄を改造してできたもので、民家もあり工房もありで、商店と住民が軒を並べている。
 田子坊には文化、商業、観光、生活が融合した不思議な光景が見られる。これも魅力の一つだ。
 たとえば田子坊には毎日約5~6000人が訪れ、外国人も多いが中国人も多い。おしゃれでのんびりできる場所として内外に知られているのだ。
• 最初に部屋を貸した住民
田子坊は国の予算を使わず、もとある家を取り壊すこともなく、旧市街地を改造してできた町だ。こうすることで伝統が受け継がれ、住民にとっても良いことが増えた。これは最初の「ソフトな都市改造」運営モデルとして認められている。
「中華人民共和国建国前は、ここは小さな工場が集まる弄堂に過ぎなかった。たくさんの工場があったよ。紡織、食品機械、包装資材…」
 筆者がインタビューした周子良さんは田子坊の大家さん第1号だ。
 周心良さんは18歳の時に、政府の呼びかけに応じて上海を出て新疆の生産建設兵団に入隊した。30年後上海に戻ってきたものの、固定収入がなく、政府から支給される月300元の収入ではとても生活できなかったため、仕方なく自宅の一部を人に貸すことにした。デザイナーの一慧がその部屋を借りることになり、32平方メートルでトイレもない家で毎月3500元の家賃収入を得られるようになった。
 現在周さんは田子坊コンサルティング部の主任を務めている。彼の事務所は田子坊入口のすぐそば。以前は化学調味料の工場で、上海で最初にできた化学調味料工場だったところだ。
 周さんは2人の隣人たちと商店、住人、旅行客相手に不動産や商業コンサルティングを行っている。サービスは無料で給料ももらっていない。
• 最初にやってきたアーティスト
画家の黄永玉さんは泰康路210弄を、「戦国策」(戦国時代の逸話を集めた書物)に出てくる芸術家「田子方」の音をとって「田子坊」と名づけた。アーティストが集う場所、といった意味だ。
 実際周心良さんが自分の家を貸し出す前、6つの工房はすべて満室になってしまっていた。最初にアーティストたちが目をつけたのは古い工房だったのだ。
 1998年、旅する画家、陳逸飛氏が泰康路に招かれた。周囲を仔細に見た氏は「ここは未来の芸術家たちを育てるところだ」と言った。「ニューヨークのSOHOのように、もともとは古い工房だったところを改造して若いアーティスト志望の青年たちが利用している。これからここは世界に名だたるアートスペースになるだろう。われわれが中国の未来の芸術家たちのためにできることは、ここを生まれ変わらせることだ。」
 陳逸飛氏のアトリエが完成し、王劼音画室、爾冬強芸術センター(Deke Erh Art Center)、鄭禕陶芸工房が続いてやってきた。田子坊はアーティストたちが集まるクリエイティブで活気あふれる町に変貌したのだ。
 上海の海派文化を見れる場所として、多くの外国人に魅了されています。もちろん、中国文化、中国の各地のお土産もたくさん売られています。

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